夢としての大学、義務としての大学 ー米国と日本における大学への価値ー

       
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FUJI

Jul.14.2015 - 06:22 am

 We are too individualistic to be individual,

We are too collectivistic to be collective

 

現在、アメリカを中心とした海外への留学が日本でも一つの選択として注目され始めてきています。それに伴い、アメリカの大学留学に関して相談を最近受ける機会が増えてきました。お子さんの将来を深く考慮されている親御さんから、学生、教師の方まで、様々な方が今関心を寄せられています。

相談者のかたが求められているものを理解した上で提案をすべく、対話形式で理由を一つ一つほどいていきながらアメリカ大学留学のメリットとデメリットを紹介させていただいているのですが、たびたび見受けられた動機の一つは、東大を頂点とした偏差値の延長線上に位置するのがアメリカのトップ大学である、つまりは「ランキング(偏差値)が高いから」というものでした。その他にも「英語が習得できるから」「国際化できるから」等の理由が主に挙げられていました。実際に留学している身としては、同じく志を共にする学生が増えることは無論喜ばしくもありますが、一般的に浸透しているそういったイメージは個人のニーズに焦点を当てていくと必ずしも正しいとは限りません。本当に必要かどうかを確認するために質問をするのであれば、少なくとも以下のものが出てきます。

 
  • 「そのランキングの物差し(Methodology)はあなたに合っているのか?」
  • 「英語を必要とする目的があるのか?」
  • 「国際化とは何か?」
  • 「アメリカの大学の価値とは何か?」
 

等のことが少なくとも出てきます。上の質問に答えられた上で、それでも「アメリカの大学に行くしか無い!」というのであれば、問題は無いのですが、多くの場合はアメリカの大学にしかない価値を求めて、というよりも、むしろ「(日本大学)+(英語)=(海外大学)」ぐらいの理解で莫大なお金と時間を費やそうとしています。「すべきではない!」とは絶対言いませんが、「したほうがいい!」とも言えません。先行している想像と実際にある現実のギャップというのは体験してみるまでは簡単に埋まるものではなく、ギャップが確かにある、というのもなかなか認識しづらいものです。経験しなければギャップは埋まら無いこともわかるのですが、実際に海外留学でもたらされる「利益」は、予期する「価値」と実際に経験する「価値」のギャップが少なければ少ないほど、確かに得られます。その「利益」をできるだけ多くするために、事前に調べて準備することはとても大事なことです。

僕はこのHatchi studio.を通して、そのギャップを埋めるお手伝いをしようと、日々色々な人に質問したり、議論したりしているのですが、残念ながら予想以上に「(日本大学)+(英語)=(海外大学)」の認識が日本では一般的であることを最近強く実感しました。

 

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その一つの例を取り上げてみます。ここUC Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)では日本からわざわざ来られる大手企業さんの説明会や面接を受ける機会が多く設けられています。個人的に日本企業の海外留学生への考えにいつも興味津々なため、暇を見つけては参加し、担当人事の方とお話をさせてもらっています。書くとキリが無いぐらい、色々なことを聞いてしまいましたが、主に尋ねたのはこれら3つの質問となります。

 
  • 「なぜアメリカの大学生を取る必要があるのか?」
  • 「さらに言えばなぜUC Berkeleyの学生でなければならないのか?」
  • 「アメリカ(UCB等)と日本の大学の違いは何か?同じなのか?違うのか?」
 

これら質問に対して、あるかたには素敵な笑顔で応答していただけたり、あるかたにはひきつった笑顔をいただけたりしたのですが、そういった人事の方々との会話の中で興味深かったことは、ほぼ全ての企業が上に挙げたあやふやな印象と図式を元にアメリカの大学生を

「(日本の学生)+(英語)=(海外留学生)」

程度に考えていることです。時折、左辺に「+(チャレンジ精神)」を加えられる方もいますが、基本的には日本大学生の亜流という認識が主なものでした。人事の方で海外大学出身者というのも見かけられませんですし、仕方ないことなのかもしれませんが。しかし、もしそうだとすると、英語が話せる日本大学生を日本で採用すれば、何十時間も何十万もかけずに求めている人材が手に入るのではないか?と思ってしまいます。ひそかに大発見をしてしまったのではないか!と震え始めてきました。

…アホな冗談はさておき、未だに強く存在している認識のギャップを埋めるためには以下のようなことを考えていくことが大切でしょう。

 
  • 「日本とアメリカの大学の違いはなにか?」
  • 「実際の環境に大きな違いはあるのか?」
  • 「どういった要素が日本とアメリカの大学のそれぞれの必要性を差別化するのか?」
  • 「その違いはどのように学生・大学に現れているのか?」
 

これからアメリカを含めた大学へ進学を考えている学生のかたにとって、とても意義のあるトピックだと思いますので、シリーズとしてアメリカと日本の大学の違いをどんどん紹介していければと思います。ただ、アメリカといっても日本とは比べ物にならないほど広大ですから、ピンからキリまで色々な大学があります。カリフォルニア州が日本とほぼ同じ面積を持っているぐらいですからね。ですので、今回の記事において対象はトップ大学(参考:Best Global Universities Rankings)、さらには議論した友人の出身・留学校であるスタンフォード大学(Stanford University)とカリフォルニア大学バークリー校(University of California, Berkeley)、東京大学(University of Tokyo)、に前提を絞りたいと思います。

 

「アメリカと日本の大学の違いは何か?」

違いの一つは、学生の大学の価値への認識とその流れ、です。二言で言ってしまうと、

「”夢としての大学か、義務としての大学か”」

これがアメリカと日本の大学で発生している違いと言えるでしょう。

 

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日本では今現在、政治への不信、経済的不安定さ、独自性の迷走、様々な社会問題が起こっています。そして、学問機関の価値への懐疑や信頼性の凋落。日本ではその原因として主に三つの方向性を持って語られているのをよく聞きます。

学生を対象とした「ゆとり教育・世代」による学力低下、教育機関を対象とした「職務怠慢」による大学否定、企業を対象とした「過商業的活動」の教育の価値観への悪影響、といった批判です。しかしながら、根本的な問題は三つの中のどれか一つなのでしょうか?それとも二つ?全部?そもそも何故それは問題なのでしょうか?気になったため、教育に関心がある友人らを誘い、話をしてみました。

友人らは日本での長期留学を大学もしくは大学院で経験したことがあるのですが、その彼らとの結論は、今危惧されている現状は特定の一つによって引き起こされた訳ではなく、社会内の文化的性質から来る自然な帰着ではないか、というものでした。

つまりは現在の教育の在り方を常識的な「良い」「悪い」「正しい」「間違い」といった一側面で断じるのではなく、それぞれの国が持つ価値の流れの体現として理解するのが適切ではないか、ということです。

なぜなら、教育というのは学校教育だけではなく家庭・地域教育を含めたコミュニティーによる社会化活動です。社会化というのはコミュニティーから個人への言語や価値、規範の同一化現象であり、ある意味究極の個人化とも言えます。果たして、その「個人は個人的であるのか?」、というのはまた別の話ではありますが、どの社会に置いても個人の利益と社会全体の利益をそういった「合意」された価値基準・規範を用いて、政治的に経済的に思想的に「利益」のバランスを取ろうとしています。無意識的にしろ、意識的にしろです。ある国ではより個人が保有する価値というものにより重点を置いていたり(Indivdualism)、ある国ではより集団的価値というものがその合意の中で最優先(Collectivism)とされています。しかしながら、もちろん、集団的コミュニティーの中でも個人の価値を優先する人は存在しますし、逆もまた然りです。よって、今回の考察ではこのような山なりの分布図を傾向の推定として使用しました。

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では、アメリカと日本の価値観はどういう傾向にあるのでしょうか?アメリカと日本の大学の違いを生み出している一つの価値としての流れを、こうじゃないか?と考察しまとめてみました。

(アメリカ)

アメリカは個人としての価値をより重視した視点が支持される傾向があります。価値観の前提として、個人の権利が優先されなければならない、と感じる方が多いということです。そういった価値観の元で社会的規範はより個人の権利・価値を通して維持され、展開されており、教育制度や思想に色濃く反映しています。それについての詳細はまた別の記事にて改めて書ければと思います。「良い悪い」の物差しで描写するのであれば、良い言い方をすると、より自由・開放的な教育、悪く言えば、より社会的無責任な教育が支持されていると言えます。良く言えば、内発的な人物が育つ、悪く言えば、わがままな人物が育つ、とも言えるでしょう。社会が求める価値規範において、個人の有り様を規定しないことにより、社会的経済的な価値基準において左から右が、上から下が飛び抜けている。それを言い換えて個人の多様性とも言えますし、社会の不安定さとも言えます。

(日本)

一方、日本はより集団としての価値をより重視した視点が支持される傾向があります。価値観の前提として、コミュニティーの利益が優先されなければならない、と感じる方が多いということです。上と同じく「良い悪い」の物差しをまた使ってみましょう。良く言えば、責任感を育てる教育、悪く言えば義務的な教育が支持されていると言えます。良く言えば、秩序的な人物に育つ、悪く言えば、外発的な人物が育つとも言えます。社会が求める価値規範において、個人の有り様を規定することにより、社会的経済的な価値において左から右が、上から下が揃えられています。それを言い換えて個人の平均性とも言えますし、社会の安定性とも言えます。

 

それぞれの社会のそういった文化的背景の性質が、結果的にトップ大学において体現されているようにみえます。アメリカでは大学の社会的、学問的価値が未だに高く支持され、価値の維持・改良が常に注目される、という流れがかたちづくられています。日本では大学の社会的、学問的価値が失われ始めており、価値の復興が注目する流れが形作られています。その流れの中で、学問機関としての大学の価値は、アメリカでは好循環・増大の傾向にあり、日本では悪循環・減少の傾向にあるように思えます。

それぞれの「価値」の流れが形成する、個々人にとっての大学の必要性は、「有る」「無い」の方向性に分かれて行っています。

 

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”夢としての大学、義務としての大学”

アメリカは夢としての大学入学、あるいは夢の達成手段としての大学入学という認識が学生内に強くあります。行きたいから行くのです。だからこそ、大学は夢の始まりであり、挑戦する価値が存在しています。それ故に、単純に学問機関としての価値だけではなく、そういった夢・熱意を抱く人々のコミュニティーとしての価値も大学が保有しています。そこで自身の夢を追及する個人個人が同じ志を他者の中に見つけ、個人の上に立つ集団として日々協力し合い、学業により価値を見出す。

だから、馬鹿げた量の課題でもやっていけます(参考:第二記事 “哲学専攻の一日”)。その流れが生み出すものは、学生がより主体的に授業に取り組み、教授陣(大学)側も学生の関心や要求に応えなければならないという意識・意志提示になります。なぜそれが重要かというと、教授は教育者としての役割はもちろんのこと、研究者としての役割もあります。もし学生が講義の中で教えられる内容(専門)に興味もなく、要求もしなければ、多くは講義のための労力を研究へと割り振り、自身の興味を追及していくことでしょう。だから、その提示された意志というのは大学における教育と研究の質の両立・維持にはなくてはならないものなのです。

その流れの中で授業の質が向上されることにより、やる気のある学生はより主体的に授業に取り組み、彼らの目標達成のための利益を得られます。大学側はそれに応え、授業の質の向上・維持をしようとする大学が、学問機関としてその好循環の中で上手く働いています。卒業後も、学問の価値への認識・継続が起きているため、”学問”への投資は後を絶ちません。だからこそ、大学が夢としての価値をより持ちえています。

 

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日本は義務としての大学入学、もしくは義務の終焉場所としての大学入学という認識があるように思えます。行かなければならないから、行くのです。今までのコミュニティーによって発せられた規範要求からの解放、言い換えれば、「無い」ことが価値として大学に生まれています。そして、所謂燃え尽き症候群が発生し、学生が「学び問う」ことに価値を見いだせなくなっています。

それが意味することは大学の学問機関としての価値の減少です。学問に価値を置く個人個人は多くはなく、むしろ「無い」から根ざす欲求の開放へのコミュニティーが形成されています。当たり前のことですが、興味がなければ講義が面白いはずもなく、教授側から提示される内容に主体的に取り組みたいと思うはずがありません。後ろ側の机の下で、指がせわしなく動かすほうに労力が回ってしまうのも仕方ありません。教授陣(大学)にとっても、無論、その反応が嬉しいはずもなく、研究者として教育から研究への労力の移行する方向へ向かってしまいます。それは授業の質の低下を引き起こし、やる気のある生徒はその状況に失望してしまいます。そして、学生による授業参加率の低下…。

その流れの中で授業の質が悪化されることにより、やる気のない学生はより受動的に授業に取り組み、主体的な学生も学問機関に在学することによる利益を最大限得られません。大学側はその流れに応える形で、学問機関として大学としての放棄、もしくは再興、あるいは違った方向への価値移行を目指しています。その学問への価値喪失による悪循環の中で、今問題とされているように学問機関としての価値が揺らいでしまっているのでしょう。卒業後も、学生は学問の価値への認識・継続が強く起きないため、”学問”への投資は比較的されていません。だからこそ、大学は義務としての無価値さをより持っています。

 

また長くなってしまいましたので、簡潔にまとめますね。今回取り上げたアメリカと日本の大学の違いは、大学への個人の「価値」の有無、と言えます。現在、学問に対してアメリカはより「価値」を持ち、日本はより「価値」を持っていません。今回は取り上げられませんでしたが、この他にも多くの違いは存在しています。そして、それらは地形的な、歴史的な、思想的な経済的な環境要因から来ている複雑なものであります。一度には書ききれませんので、細かく分けて、ちょびちょび新しい記事で補足していきたいと思います。

 

今の大学が「良く」映るか、「悪く」映るか、それは個人の必要性に相対的に依存しています。つまりは、「あなたが何を望んでいるか」によって、上にあげた大学の違いや利益が異なるということです。だから、正直なところ、アメリカ留学は万人に薦められるものではありません。しかし、もし「学問」に価値を見出すのであれば、上の「違い」に心が躍ったのであれば、アメリカの大学はとても面白いものになる!そう断言しておきます。

 

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(参考リンク)

Best Global Universities Rankings(国際大学ランキング)

世界市民になるために ーUC Berkeleyでの哲学専攻ー

 

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藤乃巻 龍之介

Ryunosuke Fujinomaki

ryunosuke.fujinomaki.berkeley@gmail.com

       

FUJI

UC Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)にて哲学を専攻しています。同大学院の認知神経科学と教育心理学部門にて研究を行っています。現在は休学し、法文書翻訳と複数スタートアップに参加しています。